学芸員ブログ
第2回 歴史文化講座 「奈良・平安の狭山-今宿遺跡、宮ノ越遺跡、鳥ノ上遺跡、揚櫨木遺跡を中心として-」を開催しました!
令和4年度第2回歴史文化講座(1月22日開催)は、現在開催中の令和4年度冬期企画展「拓くひとびと―狭山の奈良・平安」関連企画として、狭山市文化財保護審議委員の中平薫先生にお話しいただきました。
入間川左岸(入間台地)の今宿遺跡、鳥ノ上遺跡、宮ノ越遺跡と入間川右岸(武蔵野台地)の揚櫨木遺跡について、詳細に分析された内容はとても刺激的でした。
古墳時代にはほとんど空白だった日高市・飯能市・入間市・狭山市などの地域には、奈良時代になると突然集落が出現します。狭山の場合は8世紀初頭の早い段階から10世紀初頭まで営まれるのは鳥ノ上遺跡の集落です。少し遅れて8世紀第2四半期から同じ左岸の今宿・宮ノ越遺跡、さらに少し遅れて8世紀第3四半期から揚櫨木遺跡の集落が営まれています。入間川左岸の河岸段丘には集落が連なり、水に乏しい入間川右岸にも揚櫨木遺跡などが作られます。
これらの各遺跡には、墨書土器(識字者が存在したことがわかります)、紡錘車(日高市など周辺地域に比べて多数出土しており、糸を紡ぐ技術が普及していたようです)、多種多様な鉄器などが出土しています。
各遺跡の住居跡などの遺構の年代や、出土資料の分析から、識字者や技術を持った人々がこの地に移り住んでいたこと、その要因が霊亀2年(716)の高麗郡建郡にあるのかもしれないということ、紹介した遺跡がその後も長期にわたり遺跡が継続したことなどがわかりました。
また倭名類聚抄の入間郡の中の「廣瀬郷」と現在の地名の「広瀬」の関係から狭山市は古代入間郡域に含まれた地域だったと推測される事など丁寧にご説明いただき、この時代の様相を解き明かそうとする試みに会場の参加者の方々も熱心に聴きいっておいででした。